日本商船のモーリシャス沖重油流出事故経緯とモーリシャスについてまとめ

日本企業の貨物船WAKASHIO(わかしお)号が現地時間7月25日午後7時25分にモーリシャス沖で座礁し、悪天候により救助作業が難航する中、同8月6日午前8時から1000tを超える重油が流出した事故についてまとめました。(後で追記するかも)

まずは船の状況とモーリシャスについて。

 

WAKASHIO(わかしお)号の船要目と事故時点の状況

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WAKASHIO - 長鋪汽船株式会社

ばら積み貨物船(バルカー)」とは大量の資源を梱包しないで輸送できる船。「ケープサイズ」とは鉄鉱石以外も運べる貨物船のサイズの中で最大級の船型のことで、スエズ運河を通れない大型船が、喜望峰(cape of good hope)やホーン岬(cape horn)へ迂回していたことが語源だそうです。商船三井:暮らしを支える いろいろな船

中国江蘇省(上海のある浙江省の北隣の地域)で貨物を全て降ろし、シンガポール経由でブラジルへ向かっている途中でした。
座礁時点では船体に損傷はなく、燃料油流出の可能性は低いと見られていました。

 

モーリシャス共和国

位置と気候

モーリシャス共和国はアフリカ大陸南東部からマダガスカル島を挟んで東に位置する小さな離島国。フランスの海外地域圏レユニオン島の東175km。
手元にあった昭文社の『グローバルマップル世界&日本地図帳』(多分)2019年版から写真撮ってみました。3つ付けた赤い印の内の左下の印辺りです。

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 (多分)2019年版までの表紙には航空写真が使われてたみたいなんですが、マダガスカル島の右側にある白い点がモーリシャス島ではないかと思います。
アマゾンには以前の表紙のものは2014年版までしかないようです。
↓※注:2014年版のアマゾンリンクです。安い♡

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残念ながら、モーリシャス共和国の地図はあまり詳しくは載っていませんでした。主島のモーリシャス島以外にも島がいくつもあるんですが。
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2020年版から表紙が変わったようです。

国土面積は2040㎢と東京都程で人口推定127万人(上の画像と数字が違います)。首都はポートルイス。主島のモーリシャス島は面積1864㎢、人口は推計122万人で、どちらも国全体の9割を超えています。領土内にロドリゲス島(108㎢、4万人)、アガレア諸島(26㎢)とカルガドス・カラホス諸島(26㎢と1.3㎢、合わせて289人)の他、小さな島々が離れて散在します。モーリシャス政府はイギリス領のチャゴス諸島、フランス領のトロメリン島の領有も主張しています。
南半球の海洋性気候地域で11月から4月が夏、5月から10月が冬とされていますが、気温差は小さいようです。島の中心部は夏の1月は19℃から25℃、冬の7、8月は13℃から19度の間で変化し、海岸沿いは5℃程高くなるとのこと。

美しい景観から「インド洋の貴婦人」の呼び声も高く、リゾート地として人気を集めるに止まらず、国際的に重大な課題となっている環境保全の成功例としても強い存在感を持っています。空気の質も世界最高水準とされ、WHOが91ヶ国1100都市のデータを集めて調査し、2011年に発表した結果は、モーリシャスの空気はエストニアに次ぐ世界2位の良質さとのことでした(According to the World Health Organization - Mauritius: a breath of fresh air (localized))。清浄な空気や海が保たれることで、希少な生物種や絶滅危惧種に生存できる場をもたらし、生物多様性を守ることにも大きく貢献しています。
そうなるに至ったのは、地理条件に恵まれていただけではなく、長年にわたって環境保全を重要な国策としており、国際的な環境保全条約に参加したり、小さな国土に対して多くの地域を保護条約に登録したり、また、民間人も強く関心を持ち熱心な活動を行っているなど、国全体の取り組みの成果でもあります。
それだけに、今回の事故は既に大きな被害が出ており、連鎖的な影響がどこまで深刻化するかわからないようです。
座礁現場はラムサール条約に登録された湿地帯2か所のすぐ近くでした。(ラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約:The Convention on Wetlands of International Importance especially as Waterfowl Habitat)|外務省

20200816165709Mauritius | Ramsarより)

pelicanmemo.hatenablog.com

 

歴史

1598年以来、オランダ、フランス、イギリスの植民地となり、1968年3月12日に英連邦王国(commonwealth realm)の加盟国として独立。3月12日は独立記念日となりました。1992年3月12日に共和制に移行し、それに伴い、加盟先も英連邦王国から英連邦(commonwealth of nations)に移行しました。すぐそばのレユニオン島は現在もフランスの海外地域圏です。
民族構成は7割近くをインド系、3割近くをクレオール(主に黒人と白人の混血)系が占める他、中国系、フランス系など多様です。
小さな離島国がこのように多民族国家となったのは、植民地時代の政策によるものです。オランダが領有宣言をした1598年時点では無人島だったようですが、歴代宗主国の植民地政策により、主にアフリカの人々が奴隷として移入させられました。その後、欧米で奴隷制度廃止運動が政治的影響力を持つようになり、英植民地時代の1833年に英国議会において奴隷制度廃止法が可決され、1835年にモーリシャスでも奴隷が解放されると、労働力不足を補う為にインドから大勢の移民が呼び込まれ、インド系が最多民族となるに至りました。
奴隷制度廃止運動が実際に政治を動かすまでに至った背景には、恐らく、世代を経るにつれ支配者と被支配者の混血が進んだり、植民地生まれの支配者層・宗主国生まれ被支配者層が増えて更に世代を重ねたり、結果的には相互に溶け込んで行ったことが大きな要因の一つとしてあるのではないかと思います。とは言っても、奴隷労働力の補完手段として呼び込まれたインド系移民の待遇は、やはりと言っていいのか、奴隷同然だったようです。現代でもかつての階層間の力関係が反映された格差が残っており、また、今年のコロナ禍のさなかに欧米で奴隷貿易に関わった偉人の石像が倒されたことからも見えるように、植民地政策における人種差別は今現在でも根深く尾を引いているようです。
植民地主義時代に奴隷制度が禁止されて以降の移民労働者は「クーリー」と言われ、よく漢字で「苦力」と書かれることが多いので中国語由来と思っている方が多いかと思いますが、実は、インド周辺地域の言葉で、「雇われて働く者、労働者」という意味だそうです。coolie - Wiktionary

最初の宗主国となったオランダの植民地開拓は、サイクロンや旱魃、害虫の発生などの自然災害や、本国からの物資到着の遅延などによる食糧不足や治療手段の無い病気などで非常に難航したようです。食糧は釣りや狩猟で確保し、サトウキビがうまくいかなかった分、黒檀を輸出するなどした結果、黒檀が乱伐で枯渇したり、ドードーが絶滅するなど、この時代に既に生態系が崩れる問題が起きたそうです。その後、なんとかサトウキビのプランテーションで収穫ができるようになったものの、1710年には領有権を放棄しています。
wiki「オランダ領モーリシャス」オランダ語版機械翻訳で見ると、火災で都市全体と森が燃えたみたいに書いてるんですよね。災害が多かったそうなので、自然災害かなと思うのですが……。
現代でも主要な生産品目であるサトウキビのプランテーションを開拓したのはオランダですが、現代ではモーリシャスへの影響は無いようです。

1715年からフランスが領有し「フランス島」と改名しました。オランダがモーリシャス島の開拓を開始してから2年後の1640年に、フランスは175km西のレユニオン島(当時の名はブルボン島)の領有を宣言して植民地開拓を進めておりました。フランス領時代に現在の首都ポートルイスの開発が進み、奴隷移入などにより人口増加も加速されたようです。
旧宗主国のフランスの影響力は現代でも残っており、英語が公用語とされている現在でもフランス語は広く使用され、フランス語を母体としたモーリシャスクレオール語話者も多く、国外からリゾート地として訪れる観光客もフランス人が特に多いそうです。
また、日本外務省が公式サイトに載せている2015年のOECDのデータによると、モーリシャスへの主要援助国、日豪仏3ヶ国の援助総額の内、フランスの援助額は98%強の3億5257万ドルと、ほぼ1国で(OECDの調査対象になる)援助を賄っていたような状態でした。

ナポレオン戦争のさなかの1810年、イギリスがモーリシャスを占領しました。フランスが追い詰められた1814年に締結されたパリ条約で正式にイギリス領となり、名前も「フランス島」から「モーリシャス島」に戻されました。しかし、イギリス本国からの派遣は殆どされず、農園主などフランス人の支配層がそのまま統治を続け、法や行政など統治機構にもあまり手は付けられなかったようです。現代にも残るフランスの影響力は、そのイギリスの統治方針にもよるものと思われます。
とは言え、イギリス統治時代にも大きな変化はあり、1832年から英語の公用語化を推進し始め、先程も書いたように、1835年の奴隷解放されるといった大きな出来事の他、サトウキビのプランテーション栽培も急激に拡大しました。新しい労働力として大勢呼び込まれ、モーリシャスで最多民族となったインド系移民を迎え入れた場所は、ヒンディ語で「移民発着所」のような意味を持つ「アープラヴァシ・ガート」という名で、現在は歴史文化財となっています。当時は「クーリー・ガート」と呼ばれていたそうですが、独立後の1970年代に歴史的に侮蔑感が含まれていたなどの理由で改称されました。
19世紀の後半はコレラマラリアの流行、スエズ運河の開通による戦略的地位の失墜などで発展は停滞・後退し、サイクロンなど元々の自然災害によっても大きなダメージを受けました。20世紀に入ってからも第一次・第二次大戦でモーリシャスの社会状況は悪化しました。小さな植民地として時代の波に大きく翻弄されたモーリシャスですが、民族意識も高まりを見せていきました。1886年に財産面で厳しい条件を課された制限選挙が導入され、条件が徐々に緩和されていき、第一次大戦後の1926年にはインド系の議員が選出されました。第二次大戦前後に憲法改正を求める活動が実を結び、1948年の改正直後の選挙では財産による制限を撤廃、婦人参政権も導入され、貧しい労働者階級出身のガイ・ロゼモン率いる労働党が勝利しました。1958年には完全普通選挙となると共に「最良の敗者」制度が導入されました。

「最良の敗者」制度とは、各選挙区の得票次点者(落選者の中で最も得票数が多かった者)の内、人口比に対する当選者が少ない民族、及び、得票率に対し当選者数の少ない政党の者を選び、一部の議席を配分する制度。

1968年3月12日の独立前、モーリシャス自治植民地であった1965年に、イギリスはチャゴス諸島を400万ポンドで購入して分離し、現在もイギリスの領有を主張しています。チャゴス諸島の住人だったチャゴシアンは全員他地域に強制移住させられ、未だに帰ることができないままです。2019年に国際司法裁判所(ICJ)、国連総会(UNGA)において、モーリシャス共和国への返還を求める決定がされましたが、法的拘束力が無いこともあり、イギリスは応じる気配はありません。米軍に貸与しているものとしているが、実質的には英米軍の共同基地であり、英米どちらにとっても非常に重要な軍事拠点となっております。

独立後の初代首相にはシウサガル・ラングーラムが就任しました。自治植民地時代唯一の首相(総督?)でもあり、チャゴス諸島の分離に合意したことについて批判を受けると、独立について脅迫されてのものだったと答えました。
1968年~83年の初代首相時代に輸出加工区(EPZ)設置、教育・医療の無償化、年金の導入などの政策が行われました。1638年にオランダが植民地開発を開始して以来、現在までもサトウキビが有力な生産品で、独立当時はほぼサトウキビのみに依存するモノカルチャー経済(単一の作物または産業に依存する経済)でしたが、1970年代に産業振興政策が成功し繊維産業や観光業などが発展し、モノカルチャーから脱却しました。
83年の選挙で政権交代が起こり、アヌルード・ジャグナットが首相に就任しました。2番目の首相は合計の首相任期が歴代最長で、92年に共和制に移行した時期も就任中でした。

 

政治事情

以上のような歴史から、旧宗主国のイギリス、フランス、そして、最多数派のルーツとなるインドと関わりが深く、先程書いたフランスの2015年のOECDのように、国際政治上での結びつきも強いようです。近年では中国との関係も深めているとのこと。

参加している国際協力機構は、南部アフリカ開発共同体(SADC)、インド洋委員会(IOC)、島南部アフリカ共同市場(COMESA)、環インド洋連合(IORA)などなど。

独立から現在までにモーリシャスの首相を務めたのは、シウサガル・ラングーラムと息子のナヴィン・ラングーラム、アヌルード・ジャグナットと息子の現首相プラヴィン・ジャグナット、そして、2003年~05年に就任していたポール・ベランジェの5人です。ポール・ベランジェはアヌルード・ジャグナットと連立を組んでいた党の党首でフランス系と思われます。現在のところ、政権交代はほぼラングーラム家とジャグナット家の間で行われています。
モーリシャスでは、一時政情不安で72年の選挙が延期されたこともありますが、選挙は安定して行われてきており、政権交代も全て正当な選挙手続きによるもので、アフリカでは珍しいそうです。
現在の選挙制度は1958年以来の普通選挙と「最良の敗者」制度を採っております。

 

経済事情

古くからの砂糖生産、独立後の振興政策により成長した繊維工業、貴重な自然環境を活かした観光業の他、近年では1989年にオフショアセンターを設立するなど金融業にも力を入れており、多くの国と租税条約を結び、タックスヘイブン租税回避地、合法)として世界中から多くの投資を集めています。特に、2000年頃から15年間のインドへの直接投資国の内、3分の1程がモーリシャスからだったそうです(モーリシャスへ税逃れ阻止 印が協定改正 資金移動に課税 - SankeiBiz(サンケイビズ))。
それがインドに住むインド人の脱税にも利用されたことなどを理由として、2016年5月にインドは免税措置を終わらせることとしました。この翌月、イギリスEU離脱国民投票で賛成多数の結果が出ました。ヨーロッパからのインドへの投資は、英連邦に加盟しているタックスヘイブン国であるモーリシャスを経由する為か、ロンドンを中心に英ポンドで行われていたそうです。イギリスがEUを離脱したことで、モーリシャスは非常に大きな影響を受けていると思われます。(英国のEU離脱で深まる東アフリカ・モーリシャスと中国の絆 | プレタポルテ by 夜間飛行

 

事故の経緯

※時間区域の表記が無い場合は現地時間。日本とモーリシャスの時差は5時間。
座礁時残っていた燃料は重油約3800t、軽油約200tの計約4000t。
(調べきれてないので、特に迅速に協力したフランスについては殆ど書いてません。後々追記するか、別の記事に書くかもしれません)。

・(上海時間?)7月4日
中国江蘇省で貨物を降ろし終わって出港。シンガポール経由でブラジル方面に向かう計画で航行。

・7月25日
18時15分 国家沿岸警備隊(NCG)のレーダー・オペレーターがわかしお号を探知。通常の作業として通信を試みるがわかしお号からの応答が無かった。
19時25分 インド洋モーリシャス沖で座礁モーリシャス島南東0.9マイル(約1450メートル)辺り。本来の予定では島南東約20マイルを航行することになっていた。
20時10分 わかしお号の船長から応答。操船不能であるとの報告。
わかしお号からの遭難信号など救援を求める通信は記録されていない。
何度通信を試みても応答が確かめられなった時点で、NCGは事故発生に対する警戒態勢の整備を開始。

・7月26日
座礁現場周辺の5つの地点(沿岸警備隊管轄区域、ブルー・ベイ・ビーチ、ポワント・デズニー・ビーチ、プテジェローム、マエブルー・ウォーターフロント)で水質調査開始。重油流出発生の6日まで、炭化水素など油流出を示すものは検出されなかった。

・7月30日
わかしお号の船主長鋪汽船と運用者商船三井の要請を受けた海難救助会社SMITサルベージスタンフォード・マリーン社のPSV(プラットフォーム補給線)スタンフォード・ホーク到着。
タンクを含め、船体に損傷は見られなかった。

・7月31日
海が大荒れし、わかしお号の岩礁に対する船体の角度が変わったとの報告。
船体の損傷や劣化は見られなかった。
SMIT救助作業員により、マダガスカル付近に待機していたスタンフォード・ホークが再配置された。

・8月1日
引き続きわかしお号を監視、状況調査。

・8月2日
船首水槽、6番バラストタンク(バランス調整タンク)、機関室、管路(パイプダクト)が破損し浸水が発生。
その段階では燃料油流出の危険性は低いと判断され、また、荒天の為、燃料油抜き取り作業中にパイプが破損する危険性が高かったため、燃料油の移送作業は見送られた。
船底タンクの燃料は、危険性最小化の為、救助作業員により船体上部のタンクに移送された。

・8月3日
最大波高5mなど荒天が続き、わかしお号への接続ができなかった。
わかしお号が70m前進した為、船が移動しないよう救助チームは右舷錨を降ろした。
モーリシャス政府が公式サイトで座礁事故を報告。この時点でブルーベイ海洋公園やわかしお号の前方にオイルフェンスなどが設置されていた。わかしお号の乗員と救助作業員は全員PCR検査陰性の結果が出ていた。

・8月4日
この日も最大波高5mの荒天となり、わかしお号への接続ができなかった。
SMITサルベージの造船技師は船が座礁位置から動かないよう6番貨物艙の80%を海水で満たすことを推奨。サルベージマスター(救助作業員のリーダー?)はこれに従った。

・8月5日
プロペラシャフトの潤滑油と推定される若干の油の光沢が見られた。それ以外の油の流出は無し。
9つの貨物艙のうちの1つ、6番貨物艙の80%を海水で満たしていた為、船体が後方へ傾斜。しかし、再浮揚前に、燃料油抜き取り作業することが想定された。

・8月6日
8時 1180トンを積んでいた右舷側の燃料タンクの1つに亀裂が生じ、推計1000tの燃料油が流出。
他の燃料タンクに破損は確認されていない。
油流出事故に対する国家油流出対策計画(NOSCP)が発動された。

・日本時間8月7日
商船三井第1報。

・8月7日
プラヴィン・ジャグナット首相が環境緊急事態宣言。フランス政府へ支援を要請。
※なりすましとも言われています。

・日本時間8月8日
長鋪汽船第1報。

・日本時間8月9日
長鋪汽船と商船三井が共同記者会見。

――(一部の要約)長鋪汽船の長鋪慶明(ながしき・きよあき)代表取締役社長がモーリシャスの人々へ陳謝。
座礁後直ちに、長鋪汽船は三井商船と協力し、サルベージ会社などに協力を要請。しかし、悪天候で波浪が強いことなどから作業が難航。
(燃料油流出後?)長鋪汽船は日本船主責任相互保険組合(Japan P&I Club)を通じて現地の油回収業者を起用。
乳化剤など環境負荷の大きな方法は当局からの指示・許可があるまで禁止するように指示した。
座礁の原因は調査中。「悪天候による強い風やうねりで、北方へ押し流された可能性がある」(商船三井・加藤常務)。機器類の故障は報告には無い。 

・8月9日
モーリシャス政府が手配したタンカー2隻(MT Elise、MT Tresta Star)の内、MT Eliseがわかしお号に横付け、油抜き取り作業、500t回収。 

・日本時間8月10日
日本の海上保安庁モーリシャス共和国政府からの要請を受け6名の国際救急救助隊・専門家チームを派遣。
長鋪汽船第2報。

・8月10日
 重油約1020tを小型タンカーへ抜き取り回収。推定1000tの内、推定460tを海上と陸上から手作業で回収。
この時点で船内に残っていた油は、重油約1600tと軽油約200tと見られる。
船体やや後方8番貨物艙に亀裂の拡大が見られたため、折損時に漂流しないよう、タグボートと繋船。

・日本時間8月11日
長鋪汽船が社員2名、商船三井が社員6名を派遣。
長鋪汽船第3報。商船三井第2報。

・8月11日
日本の海上保安庁から派遣された6名の専門家チームが現地に到着。

・8月12日
ジャグナット首相が船内の油の大半を抜き取り作業により回収したことを発表。また、長鋪汽船へ賠償請求をすることを表明。
長鋪汽船と商船三井の派遣チームが現地に到着。

・日本時間8月13日
長鋪汽船第4報。商船三井第3報。

・8月14日
燃料油以外の約100t程の潤滑油や残滓が部分的に回収された。

・8月15日
14時 8番貨物艙の亀裂拡大が進行し、わかしお号が2つに分断。未回収の油が流出したと見られるが影響は限定的とみられる。
船体前方部分は対応計画と当局の指示により沖合へ曳航。

・8月16日 
長鋪汽船第5報。商船三井第4報。

 

参考URL

当社船 座礁及び油濁発生の件 - 長鋪汽船株式会社

当社船 座礁及び油濁発生の件 第2報 - 長鋪汽船株式会社

当社船 座礁及び油濁発生の件 第3報 - 長鋪汽船株式会社

当社船 座礁および油濁発生の件 第4報 - 長鋪汽船株式会社

当社運航船 座礁および油濁発生の件 | 商船三井

WAKASHIO 座礁および油濁発生の件(その2) | 商船三井

WAKASHIO 座礁および油濁発生の件(その3) | 商船三井

Republic of Mauritius

Republic of Mauritius- MV Wakashio:Daily progress reports submitted by salvage master says, Minister Maudhoo

モーリシャス共和国|外務省

モーリシャス座礁事故、長鋪汽船と商船三井が共同会見。運航船社に求められる「社会的責任」とは。|日本海事新聞 電子版

モーリシャス - Wikipedia

ICJ「英のチャゴス諸島統治は違法」、返還を勧告 米が基地に利用 | NewSphere